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交通事故に遭いました

2008年5月13日 (火)

見た者と、見ていない者

多くの方からお見舞いと心配の言葉をいただいた。その心配に比べて私の認識は軽過ぎると映っているようだ。

今の私の姿を見た方はおおむね安心して下さる。一方、メールで気遣ってくださる方は心配が払拭できない様子だ。見えないと心配が先行するのだろう。

見てしまったから、心配した人も居る。

私が意識をなくして頭から血を流している姿を見た人はそう多くはない。

私を跳ねた運転者、私の妻と妻の両親。

この人たちはびっくりし、最悪のことも考えただろう。

私自身はこの自分の姿を見ていない。見ていない側に居る。私自身が不安に呪縛されていないことは周りを安心させているのではないか。

確率は小さくないみたい

交通事故に遭ったことを隠さずに話しています。

注意をしていても、誰にでも起こり得る、と思うからです。

返ってくる言葉から、身近に事故の被害者は結構いるのだな、と思わされました。

結構生活設計が狂うし、人生設計だって狂うでしょう。それいもかかわらず社会活動は支障なく回っていきます。社会の中で交通事故のリスクは織り込まれていて、事故の確率的な発生を前提にして、保険制度によってカバーされ、個々の葛藤が表には現れない。自動車が社会経済活動を牽引しているというのはこのようなことなのでしょう。

かつて、宇井純は言った。

高度経済成長の矛盾として公害が発生したのではない、公害を放置することによって高度経済成長は成し遂げられたのだ、と。

交通事故も同じだと思う。

廃車を決めました

交通事故にあって、いろいろ考えました。

生き方を示していくのだ、と第二の人生を始めたのですから生活や生き方を惰性で変えられない、では済みません。

私たちが車を持ち続けていれば何時加害者側になってもおかしくなかった、と思います。若い時から運転してきた方々とは埋められないほどの注意力の差があります。

車を持ち続けることに理由はいくらでもあげることができます。でもうっかりミスで私たちの人生を変えたくない、いわんや他人の人生までも。そのようなリスクは減らしておいた方がよい。ということで、車を放棄することにしました。

歩くからこそ気づく街や自然を大切にします。

去年、NHKと決別してTVを放棄したのですが、事前に心配したほどの大きな不便はありませんでした。

ないと大変、と思わされているモノを結構持たされている、のでしょう。

2008年5月 7日 (水)

連絡先は受け取っていました

事実関係に誤りがあったので訂正します。

運転者の住所氏名
保険代理店の担当者名刺
は受け取っていました。

医療センターで妻が受け取ってくれていました。

この名刺が入った封筒を今日、5/7に見つけました。

従って、
「連絡先をのこそうとはしなかった」(謝罪の挨拶)
「連絡が取れない」「保険会社も全く現れない」(保険制度とモラルハザード)
は上記の事実誤認に基づいた判断でした。

これらの記述のところには註書きを入れ、原文は残します。

2008年5月 6日 (火)

病室の環境

集中治療室ICUで一泊したのは初めての経験だった。最後にしたいがこれはわからない。
寝たままの患者が何を聞き、何を見ているか、という観点から一言。
私の関心事の音の環境という点では不満がない。機械的な騒音がなかった。夜はとても静かだった。ボイラー音や空調音という残りやすい音も意識されることはなかった。寝ている患者が不安になるような突発的な音の発声もなかった。遠くのベッドで、痛みをこらえている患者の声が夜に聞こえていた、そのために休まらないということはなかった。如月小春風に言えば、苦しんでいる人とそれを助けようとする人の出会いの場であるな、と受け止めた。
看護師や医師の履物の音がコツコツ響くということもなかった。
看護師同士の無神経な嬌声が響くこともなかった(都職員共済病院ではこれに苛立たせられた)。
不安の中にある患者の気持ちをやわらげるためにBGMがあってもよい、という意見もあるかもしれないが、私はその必要を感じなかった。良かれと思ってのサービスの提供が押し付けがましくなってしまうことはしばしばあることだし。
視覚的な環境について。患者一人当たりの区画面積はゆったりして圧迫感がない。大部屋ではあるが、隣の患者を意識することはなかった。天井は白一色の吸音ボード貼りなのだがこれは改善の余地があるだろう。患者や寝たきりで天井ばかりを見て過ごしている。医療従事者は患者が見ている視覚的風景に気を配っているだろうか。落ち着いた色を持った天井がよいのではないか、文様は必要ないと思うが。天井にシミがあったが、これも気づいて欲しい点だ。病院の機能や衛生の管理の観点から床には注意が向けられているだろう。その何分の一かでも天井に注意を向けて欲しい。

交差点の構造的欠陥

この三叉路には事故を誘発しやすい構造的な欠陥があると思う。私が跳ねられた横断歩道を渡っている歩行者から接近してくる車が見えにくい。
私は西から東に歩いたが、右折する車は交差点の中央まで出て右折の待機をする通常の交差点とは違って赤信号で待機している場所とほとんど変わらない位置で対向車をやり過ごす。対向車が切れたところで前進しながら右折するから、歩行者から見ると右折車は背後から現れる形になり事前に把握しにくい。
これは東から西に渡るときにもそれに近い状況がある。左折車が背後から来るように感じられる。
これらのことは、交差点の形状を所与の条件とするなら、横断歩道を交差点からより外側に位置すれば改善される。右折左折の車は背後から現れるのではなく横から現れることになり、歩行者の視野に入りやすい。運転者も対向車だけに注意を払って、交差点から急いで抜け出そうとして直近の横断歩道に気づくのが遅れるということが避けられる。横断歩道の位置に欠陥があると考える。
さらには、このように運転者と歩行者とが相互に視認しにくい位置関係にならざるをえない交差点なのだから、車の通行制御と歩行者の通行制御の信号現示を分けるべきではないか。二つの横断歩道はオール青とし、その時には自動車用信号はオール赤にすれば、歩行者と自動車の接触事故は起こらない。ここの横断歩道は佐鳴湖を散歩する方が朝から晩まで多く利用している。老若男女が健康保持のために通う道なのだから、高度な安全が確保されるべきである。

処罰感情

民事的な責任を回避する態度に感じられるし、これは先方の選択だから無理強いできない。
刑事的な処理について被害者として意見を述べられるらしい。「寛大な措置を望むか否か」という意見表明の機会があるらしい。この点でははっきりと「寛大な措置は望まない」と意思表示する。
真実の発見と、今後の類似事故の発生抑止の観点を大切にしたい。
私にはこの運転手が同様の事故を今後起こさないよう、法律上の措置をきちんととってもらいたい。運転者は社会的責任を刑事責任として果たして欲しい。警察にもそれを求める。同じ不注意を起こさない指導がなされなければ社会的なリスクは軽減しない。私と同じような被害が再発しかねない。
被害感情からの懲罰は求めないが、再発を抑止するに必要充分な法律上の措置は求める。被害を受けた私が後続の被害発生を抑止する意見を述べるのは私の責任だと考える。
ところでこの運転者は、その後なんらの懲罰もなく運転を再開しているということはないのだろうか、心配である。

保険制度とモラルハザード

運転者は一度謝罪に来たけれどその後の連絡が取れない挨拶だった。
今となっては、謝罪をしたとのアリバイ証明のように感じられる。
保険会社も全く現れない。
運転者が身元を明かさないのは、失念ではなく、保険会社からの指示なのだろうと推察する。被害者に同情してはいけない、どんなたちの悪い被害者かもしれない、全ては保険会社に任せて欲しい、一度謝った後は出なくてよい、と指示されているのではないか。
私は既に駆け引きの対象になっているのだろう、それに気づいていないのは私には保険会社がついておらず素人だからか。
運転者は起こしてしまった過失の結果を最小限にしたいのだろう。運転者が謝罪さえすれば、後の事務的なことはシステムとしての保険が引き受ける。
私としては、その時の運転者がどのような状態だったのか直接知りたいし、運転者から見て私はどのように跳ね飛ばされたのかも聞きたい。真実が知りたい訳なのだ。私の言い分も伝えたいし、先方の言い分も聞きたい、そこにギャップがあったとしても。
それを回避しているように感じられる。これって、その場では逃げなかったけれど、実質的には当て逃げしたのと大差ないように思える。保険制度がそれを許している。
自動車同士なら、双方の代理人が職業的に交渉する、本人たちは保険料を支払っていることでそれ以上の負担はしない。日常生活、社会生活の影響は最小限で済む。大きなリスクによる日常生活、社会生活の破綻は避けられるだろうが、反省とか責任とかも一緒に避けてしまうことになりかねない。
私の場合のように歩行者が相手の場合には、プロの保険業者さんと素人とが向き合うことになる。
いくら事故を起こしても大丈夫、事故の影響からのセイフティネットとしての保険制度という感じがしてしまう。
謝罪に来たのは、本当に私をはねた運転者だったのか。
後から私ではなかった、と翻されても私には証拠は全くない。
運転者本人が特定できないのに、委任を受けたと称して保険会社が現れたとき、その委任関係について確認のしようがない。警察は民事的なことには介入しないだろうから、どこの誰が私を跳ねたのかは教えないだろう。この事件で起訴をされるまで運転者の本人確認はできないということだろうか。
船越整形外科は治療代を保険会社から支払ってもらうつもりでいるが、私が保険会社に督促する立場ではないように思う。とりあえず私の健康保険で支払うべきかと考える。

註)連絡先は受け取っていました。別項「連絡先は受け取っていました」参照

謝罪の挨拶

運転者からお詫びを受ける
数日後運転者の方がお詫びに来店した。お見舞いとしての菓子折りを持参された。
妻は医療センターで会っているが、私は初対面に等しかった。
菓子折りをお見舞いとしていただきます、謝罪は受け入れます、という点ははっきり伝えた。お見舞いが補償の一部ではないことは確認しなくてはいけないし、謝罪を受け入れないという態度は何も益することはないと考えた。
このときも不幸な出会い方をしてしまいましたね、との私の気持ちを伝えた。
私は名刺を出したが、先方は出されなかった。連絡先も残そうとはしなかった。
この点は今でもとても引っかかっている。

註)連絡先は受け取っていました。別項「連絡先は受け取っていました」参照

被害感

被害感
歩行者である私は被害者で、運転者は加害者、という図式には違和感がある。
今回のケースの場合、運転者の側に責任は大きいと思うが起きてしまった被害に対する責任割合を争う意味はあまりないように思う。運転者側の状況を聞いていないが、故意ではもちろんないし、重過失もないのだろう。信号も無視していない、その先の横断歩道に対する前方不注意は否めない。これも過失と言えば過失だが、この程度の過失は誰にでも起こりえた。実際、ペーパードライバーから復帰して不安の中で必要最小限の運転をしている妻は自分が運転する側であってもおかしくない、車を運転するのが怖くなった、車なしの生活ができるか真剣に検討しよう、と言いだしている。
小さな過失を結果の大きさから懲罰しようとする態度は前向きではない。可罰的違法性がどれだけあるだろうか。そこに焦点がいけば当事者は防御的になり真実の発見から遠ざかる。それよりも将来に向けて、この事故が起きてしまった、近因遠因の真実を明らかにすることにこそ意味があるだろう。
鉄道事故・海難事故・航空事故では当事者の懲罰より真実の発見が優先されている筈だ。このケースでいえば、右折の信号と横断歩道の信号の信号現示は適切であったのか、横断歩道の位置、横断歩道の照明など視認性は配慮されていたか、などなど次の同様の事故を起こさない情報を取得することの方が意味があると考える。そのためには司法取引のような制度を使ってでも、運転者の側の意見も率直に引き出す術があってよい。
昨今の刑事事件では被害者や被害者家族の被害感情に対応する処罰を求める報復的な司法の方向性が垣間見える。これは真実の発見を遠ざけ、結果的に再発防止の妨げになると懸念する。法窓夜話で、刑罰は私的復讐を禁じ社会秩序を維持することに意味があると説かれていた。古い本で恐縮だが。
私の方の被害は、私の体の傷のほかに、日常生活社会生活の低下、家族の心労があった。物的な損害はそれほど大きくは無く、血染めになったシャツ、トレーナー、買い物袋。買い物袋の中の33個の卵のうち壊れたのは10個ほどだった。もし、卵が全部壊れて、私が無傷だったら私は運転者をもっと攻撃的に非難したかもしれないな、と思う。小さな事故ほど本質に迫らずに表層的な感情で終わらせてしまうことになりそうだ。
故意でも重過失でもない事案を、加害―被害の図式切りたくない。
私が見てきた紛争の多くは被害者側が正義を主張し、加害者を悪として糾弾する、という図式が多かった。調べてみるとそんな単純な例など殆どなかったのに。相手を糾弾するために被害を強調するという例すら多々あった。被害者は非難されないからまずは自らを被害者に仕立て、それから相手を攻撃するという事例を多く見てきた。
この件でこのようなレッテル貼りはしない。

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